2013/12/24

北風の中 僕は何度も何度も考えてみる

本を読んでいて、おもしろい考え方に出合ったので、
ここ数日そのことについてしばらく考えている。
せっかく考えたので、書き留めて思考を整理しておこう。

その考え方というのがこれ、問題を解決するということについて。

「問題というのは、何が問題なのかがただはっきりすればいいだけのもの、
見極めるだけのためにあるものです。
それなのに私たちは、問題が起こったら、「何が起こっているのだろう?」
と問題を知る前に、解決しようとします。」
ということらしいのだ。

なんでも、問題を解決するのは人間の役目ではなく、
それはすべて「時間」と「空間」が解決してくれるものらしい。
えー、そうなの?
問題っていうのは解決するためにあると思っていたのだけども。
問題は解決するものではない、なんて、なんという斬新な考え方!

本の中では問題解決の流れをパン作りに例えていて、
パン作りでの人間の役割は生地を「練る」というところまで、
そこから先の「解決」にあたる「発酵」をするのは、「酵母」の役割。
人間が材料を混ぜて練るだけではパンにはならず、その後は酵母に任せないと、
永久にただのかたまりのまま。
酵母の働きがあって、おいしいパンができるのだ、と。
この場合の「酵母」にあたるのが、「時間」と「空間」ということになる。

そもそも、問題解決は人間の役目でないのに、
解決しなくてはと思う人がいれば、解決策もないのに「解決しましょう」
と言い出す人もいて、それで世の中ややこしくなってしまっているらしい。
この世界自体が矛盾そのものなのだから、問題(と思えるもの)に答えなどない、
だから解決は任せて、ただ味わうだけでいいのだ、と。

うーん。そうなのかな。
わかるような、よくわからないような。
解決なんてしなくていい、というのは気持ちの軽くなるような
とても魅力的な考え方だけど、本当にそれでいいのかどうか、
それをここのところずっと考えていたのだ。


問題を体調不良(あるいは病気)というものに置き換えて考えてみる。
ここでいう人間の役割というのが、
「自分の体で何が起こっているのかを把握する」ということだな。
自分の体の中で何が起こっているのか、ここ最近のあるいはこれまでの
行い(食習慣や生活習慣や考え方)を省みて、今の体の状態を把握する、ということか。
それだけでなく、今の体の状態を自分で感じることができるということも
大事な気がするな。
で、それをしないで解決しようとする、というのは、
何も考えずにとりあえず病院へ行くなり、
なんらかの治療を行なってくれるところへ向かう、ということかな。
あぁ、確かにそれでは問題の根本的な部分は解決されそうにないな。
(もちろん病院等へ行くこと自体がよくないというのではなくて、
まず状況を把握しようとすることなく条件反射的になってしまうと、という意味です)
薬を処方してもらったりなどして一時的には症状は緩和されるだろうけど、
根本的な部分が自分で把握できていなければ、
きっとまた同じことが起こってくるのだろう。
そう考えると、確かにそれでは解決したと言うのは難しいかもしれない。
問題を把握して、食習慣なり生活習慣に原因を見つけたら、それを改善する。
これが人間の行なう、パン作りで言う「練る」までの動作。
あとは、それを継続することで、「時間」と「空間」(この場合おもに時間なのかな)
が、解決してくれる、そんな感じのイメージでいいのかな。

人間関係の問題で、この人とはどうしてもうまくいかない、
そんな時に、さりげなく距離を置いてみる、というのは
「空間」が問題を解決してくれているということのいい例なのかも。
近すぎると相手や自分の粗ばかりが目立ってしまうけれど、
程よく離れてみるとうまく付き合えるというのは往々にしてあることだ。
この場合、「さりげなく距離をおいてみる」という人間のとった行動が
問題を解決したかのように錯覚しがちだけど、
解決したのは人ではなく、「距離」という「空間」だということ、かな。

とまぁこんなことを考えていた。(決してひまだからではない)
確かに問題の解決は「時間」と「空間」によってなされているのかもしれない。
でもだからと言って、所詮人間には解決なんてできないのだから、と
虚無的になってしまっては、それではこの本の言いたいことが
十分に伝わっていないということになるのだろう。
解決する必要がないというのは、役目が違うというだけで、
何もしなくていい、何をしても無駄、ということでは決してないのだ。
問題について把握する、あるいは味わう、
それができるのは人間だけなのではないかな。

で、ふと浮かんだのが、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉。
この考え方がそれに近いのかも。
自分の役目の範囲でできるところまでやったら後の解決はおまかせ、
そんな感じ。

ちなみに、問題を把握するというのはわりとわかりやすいのだけれど、
味わうというのはどういうことだろうと、それも考えた。

問題というのを「侘しさ」や、「寂しさ」という気持ちに置き換えると、
日本人には馴染みのある例があったのだ。
それが、茶道や俳諧などでいう、「わび」、「さび」である。
侘しいものを侘しいままにそれを美しさとして味わうということ。
「寂しい」と感じたらそれを何とかしようなどと思わず、
「時間」や「空間」によってそれが自然に変化してくれることを信じて
「寂しい」ままにしておけばいい。
抵抗さえしなければそれは苦痛になることはなく、しみじみとした味わいにさえなる。
それが、日本の「わび」であり、「さび」なのだ。
寂しい気持ちに抵抗しないっていうのもすごくむずかしいような気はするけど、
この寂しさはいつかは必ず過ぎ去るということが深いところで実感できていれば、
それは可能なのかもしれない。
この感覚は、ヴィパッサナーの瞑想合宿に参加している時に、
ほんの少しかすった程度だけども、味わうことができたような気がする。
多分に仏教的な考え方なのだけど、矛盾そのものを味わう、という感覚は
それに近い感じなのかな、と。
うーん、これはちょっとわかりにくいか。
その上、わかるというのと実感できる、というのって違うものなぁ。
でもきっと、わかってくれば実感できる日も近い、そんな気がする。

何が言いたいのかよくわからなくなってきたけれども、
要は、「問題って、解決しなくても大丈夫らしいですよ」(朗報!)ということ。
問題の解決というのは本来は人の役目ではないというのに、
無理に解決しようなどと躍起になるから悩みなんかが
生まれてしまうんじゃないのだろうか、と、そんな気がしたりして。
この問題に対して自分のできることはここまで、という見極めが重要、なのかな。
問題を把握する、ということも、起きていることを味わう、ということも
慣れるまではなかなか大変そう。
でもきっと慣れてしまえばそれがあたりまえになるのだろうし、
そうすれば人生がもう少し味わい深いものになるのだろうな。


本当は分かってる 2度と戻らない美しい日にいると
そして静かに心は離れてゆくと


うん、そんな感じ。
なんだかんだ言っても結局、頭で考えてるだけじゃなくて、
日常生活の中に当てはめて実践してみないことには実感はできないのだ。
もうしばらくはこのことを考え続けることになりそう。